青春シンコペーション


第3章 鬼教授が家政夫に!(4)


静かな夜にピアノの音が響いていた。
(いったいどこから聞こえて来るんだろう?)
井倉はふとベッドの中で耳を澄ました。

今夜は大通りを行く車の音さえ聞こえない。蛍光色を纏った時計の針がぼんやりと闇に浮かぶ。間もなく日付が変わろうとしていた。
(もしかしてハンス先生が……)
以前にも一度、ハンスは深夜に一人リビングでピアノの練習をしていたことがあった。もっともその時でさえ、音は出していなかったのだが……。

(そういえば、僕が来てからほとんどハンス先生がピアノの練習をしているところを見たことがない。それに黒木先生も……。僕が昼間ピアノを独占しているから二人共、練習ができないのかな?)
ピアニストにとってピアノの練習ができないということがどれほど辛いことなのか。考える度に胸が痛んだ。
「すみません。僕のために……」
見えない恩師に井倉は詫びた。

そもそも自分がコンクールに出るなどと思ってもみなかった。しかもあの彩香と競い合うことになるなんて……。
「彩香さん……」
彼女の傍にいられるだけで幸せだった。彼にとって彩香はいつまでも変わらない高みの花だったのだ。
(それだけで十分だったのに……)

手首の痛みがずきんと脳裏に響いた。
(やっぱり無理だ。彩香さんに勝つなんて……。どう考えても無理)
闇の中。亡霊のようにピアノの音が響いていた。情熱に彩られた恋のエチュード。寝ても覚めても忘れられない切ない想い。
繰り返し訪れる感情の波に揺られ、井倉はすっかり船酔いしたような気分になった。

「駄目だ。気になる」
何度か寝返りをして眠ろうとしたものの、結局彼は起き出してガウンを羽織った。
廊下は静まり返っていた。書斎の電気も消えている。
(今日は美樹さんも早く眠ったのかもしれないな)
井倉はそろそろと階段を降りて行った。ピアノの音は階下から聞こえて来るように思えたからだ。

だが、1階のリビングには誰もいなかった。そして、ピアノの蓋も閉まっていた。ただ、ソファーの上で眠る猫達の寝息が、気持ちよさそうに漏れていた。

「変だなあ」
ふっと耳を澄ました。音はまだ微かに聞こえている。
しかし、それが何処から聞こえて来るのか所在が掴めない。
「外?」
が、窓の外には湿気を含んだ風が流れているばかりだった。

奥の和室は黒木が寝泊まりしていたが、そちらもしんとしていた。
「先生、もう眠っちゃったのかな」
井倉は仕方なく部屋に戻って行った。


だが、翌日も、翌々日も夜中になると決まってピアノの音が聞こえた。
「昼間は聞こえないのに、どうしてだろう」
コンクールの日程が近づくにつれ、それはより鮮明になっていった。

耳の奥ではいつもピアノが鳴っている。
「イメージトレーニングも大事ですけど、実際に弾いてみなければ感覚が掴めません」
焦る井倉に、ハンスは無理してピアノを弾くことを禁じた。そして、ハンス自身もピアノに触れることはなかった。

(もうあと少しで本番なのに……)
痛む手首を摩りながら彼は苛立った。

――焦るな、井倉。他にもやれることはいくらでもある

黒木も言った。彼は、相変わらず家事に精を出しては失敗を繰り返していた。その度に井倉がフォローし、ハンスや美樹とも親しくなった。まるで本物の家族のように……。


1週間も経つと、手の状態は大分よくなった。
井倉はピアノの練習をさせて欲しいと懇願した。しかし……。

――まだいけません。井倉君はすぐに無理をしますから……

ハンスはなかなか許可をくれなかった。その間にもコンクールの日は刻一刻と近づいて来る。
(このままでは……)
いても立ってもいられずに、井倉はまた夜中に階段を降りた。

その日もリビングの明かりは消えたままだった。が、やはりピアノの音は聞こえている。
「もういやだ。こんなのとても耐えられない……!」
井倉はリビングのピアノの蓋を開けた。そして、鍵盤にそっと指を当てる。
その指先から鼓動が伝う。
(弾きたい……)
熱い思いが込み上げて来た。

(弾きたい!)
一秒たりとも待てない気がした。自分はこんなにもピアノを欲しているのだ。手なんか壊れたっていい。ハンスや黒木からどれほど叱責されても構わない。今、この場で好きなだけ弾くことができるなら……。
井倉は軽くその手を鍵盤から離すと最初の一音を夢想した。そして、まさしくそれが現実の音として拡散しようとした時。

微かに何かが軋んだ。それからドアノブが開く金属音。闇がすっと背後に吸われて行く感覚がした。井倉はびくんとして体を硬直させた。そこにゆっくりと近づいて来る足音。

「ハンス先…生……?」
恐る恐る振り向くと、そこには大きな男が立っていた。思わずピアノの椅子から逃げるように立ち上がった。

「井倉、どうした? こんな夜中に……」
それは黒木だった。
「く、黒木先生……どうして?」
井倉はピアノのへりに捕まるとへなへなと言った。
「あれ? まだ寝てなかったですか?」
あとからハンスもやって来て訊いた。

「まだってあの……」
二人が出て来た扉を見て井倉は唖然としていた。そこはリビングの壁だった。普段は飾り棚が置かれている場所だ。それがスライドして地下へ続く階段が現れたのだ。
「先生……それって」
「あはは。ばれちゃいましたね」
ハンスが明るく言った。
「実はこの下に秘密の地下室があるんです」
「地下室?」

「ああ。そこでこっそりピアノの練習をさせてもらっていたんだ。何しろもう半世紀近くもやってるんでね、一日でも練習しないと禁断症状が出てしまってね」
黒木は何となく照れくさそうに言った。
「ピアノですか?」
「うん。がっちり防音してるから夜中でも聞こえない筈だよ」
「でも、僕、この間からずっとピアノの音が聞こえて気になっていたんですけど……」
「聞こえた? それじゃあ、君は相当耳がいいんですね」
ハンスが笑うと瞳は光を帯びて輝いた。

「井倉君、せっかくだから地下を案内しましょう」
ハンスが手招く。
「あ、はい」
地下には広いオーディオルームとコレクションの部屋。そして、小さなキッチンまで付いていた。更にそこから外へ伸びている通路や2階の美樹の書斎へ通じている梯子などもあるという。

「すごい。まるでからくり屋敷ですね」
「ふふ。美樹ちゃんの趣味なんですって……。ここにピアノも入れてもらったから、夜でも自由に弾けるようになったです」
「あの……今、弾かせてもらってもいいですか?」
井倉が訊いた。
「いいけど、手はもう大丈夫になったですか?」
「はい」
彼はうれしそうに頷いた。

「それじゃ早速弾いてみろ」
黒木も促す。
「はい」
彼は椅子に座ると浅く息を吸った。それから、ゆっくりとその息を吐き出す。三日月に腰掛けた人形が軽くウインクを投げた。それから、縁に掘り物を施した魔法の鏡が彼とその思いを映す。転がる鍵盤の上で妖精が踊る。それは水面を渡るように波紋を投げ掛けて、白鍵を越えて行った。
(彩香さん)

閉じた瞼の奥に焼き付けられた記憶。井倉は微かな微笑を浮かべていきなり鍵盤を弾き始めた。その情熱を、ありったけの思いを指先に込めて……。

「すごくよかったですよ」
ハンスが言った。
「ああ。これなら何とか予選を突破できるかもしれん」
黒木も同意した。
「ありがとうございます。僕、頑張ります」
さっきまではたとえ何があろうと彩香には勝てないと思っていた。が、何故か今はそうは思わなかった。自信よりも強い何かが彼の全身を包んでいた。


そして、コンクール2日前。突然ハンスが言った。
「井倉君、実は僕、急な仕事ができました。すぐに出掛けないといけないです」
「え? お仕事ですか?」
井倉が訊いた。
「はい。大事な予選の前だからと断ったのですが、ルドルフは強引な男なのでどうにもなりません。なるべく急いでお仕事片付けてきますけど、本番には間に合わないかもしれないです」

ここに来てハンスが不在になるのは不安だった。だが、仕事とあっては無理も言えない。
「わかりました。では、どうぞ気をつけて……」
井倉はそう挨拶した。
「井倉君も……。きっと大丈夫だと僕は信じています。予選突破のお祝いの花束とワインを持って来ますからね」
「は、はい。頑張ります」
そう答えるしかなかった。

「心配するな、井倉。ハンス先生がお留守の間、私が二人分厳しいレッスンをしてやるからな」
黒木が言った。
「それじゃ、黒木さん、井倉君のことよろしく頼みます」
ハンスの言葉に黒木は任せておけとゼスチャーした。

「ハンスも気をつけてね」
玄関先で美樹が言うとハンスは名残惜しそうに何度も彼女を抱き締めてキスした。井倉も黒木も赤面しながら、そこから離れられずに困っていた。そこへハンスの兄のルドルフがやって来て、強引にハンスを連れて行った。
見送る猫達も寂しそうだ。
(あと明日一日。いったいどれくらいのことができるかわからないけど、きっと予選を通過できるよう頑張ります)
井倉はそっと心に誓った。


そして、ついに予選当日。その日は梅雨の晴れ間のような晴天に恵まれた。
都会の小さなホールの観客席を埋めているのは、ほぼ関係者だった。

「いいか? 井倉、リラックスしていつも通りにやるんだぞ」
黒木が言った。
(いつも通りでいいのかな?)
黒木は大抵どこを直せとか、何に注意しろとかと井倉にとってはマイナス点ばかりを指摘した。いつも通りでは黒木の望むような演奏ではないということにならないかと、井倉は心配になった。が、美樹が手を握ってくれたので少しばかり気分が落ち着いた。

「井倉君、きっと大丈夫よ。だから落ち着いてね」
「ありがとうございます」
それでも、ハンスの姿が見えないのが寂しかった。
(先生なのにいつも気さくに接してくれて、さり気なく僕をサポートしてくれる。ハンス先生がいなかったら、僕は今頃……生きてさえいなかった)
そう思うと、今日ここでピアノを弾くことができるというだけでも感謝しなければと思った。

(結果なんかどうだっていい。僕はハンス先生のために弾く。そして、美樹さんや黒木先生のためにも……)
井倉が大学に戻れるようにするため、ハンスも黒木もこのコンクールに賭けてくれたのだ。
(僕を信じてくれた先生方のためにも、僕は悔いの残らない演奏をする)

その時、ロビーの人混みの中に華やかな一団が現れた。彩香とその取り巻きの女子だ。それに金髪のピアニスト、ヘル バウメンや薬島音大の理事長も一緒にいた。
「彩香さん……」
一瞬だけこちらを見た彩香と目が合った。何か言おうとしたが、彼女はすぐに控室の方へ移動してしまった。
蔑んだような目でこちらを見ている理事長に、黒木が強い視線をぶつけた。彼に睨まれるとさすがの理事長もバウメンを伴ってすごすごと立ち去った。

やがて、出場者に対する集合のアナウンスが流れ、井倉もその指示に従った。
「それじゃ、行って来い」
黒木が力強く送り出す。
「はい。頑張ります」
「応援しているね」
美樹もやさしくそう言った。

控室ではじっと目を閉じてイメージトレーニングをした。知らず指は膝の上で鍵盤を叩く。
井倉の出番は46番。予選二日目の午後だった。同日のうちに予選通過者の番号が発表される。本選に出場できるのは上位16名のみだ。

(ここまで来たらもうやるしかない)
井倉は固い決意を抱いて控室を出た。
「では、46番の方、袖でお待ちください」
案内されて行くとそこに彩香がいた。胸に45番の名札を付けている。
(彩香さんの次……)
井倉の心臓がぴくんと震えた。
「あの、彩香さん」
思わずそう呼び掛けて息を呑んだ。ドレス姿の彼女はいつになく気品に溢れていた。

「井倉……」
彩香もじっと彼を見つめる。
「あの、僕……」
「お黙り!」
ぴしゃりと言うと、彼女は舞台の方を注視した。44番の弾く課題曲がここまで聞こえていた。

「何番を選んだの?」
彩香が訊いた。
「4番です」
それを聞いて、彩香は意外そうな顔をした。
「あら、偶然ね。私と同じ曲を選ぶなんて……」
「彩香さんと……」
考えてみれば当然だった。彼女はエチュード4番を得意としているのだ。

「噂通り、相当自信があるようね」
「そんなこと……」
「わざわざ音大に来て宣言したそうじゃない? 私に勝ってみせると……」
「それは……」
誤解だった。少なくとも、彼自身はそんなことを言ったことはない。
「いいのよ。謙遜しなくても……。ハンス先生や黒木先生にも見込まれているんですもの。さぞかし実力がおありなのね。でも、そんな小手先のテクニックなど、このコンクールでは通用しなくてよ」
「彩香さん」

「実力の差というものを思い知らせてやるわ。私のすぐあとで同じ曲を弾くという惨めさをね」
舞台の上では自由曲の演奏に変わっていた。もう1分もすれば彩香はまた手の届かない場所へ、虹色のステージへ行ってしまう。

「違うんだ、彩香さん。僕は決してそういうつもりじゃ……」
44番の演奏が終わり、沈黙の時間が訪れた。
「すべては誤解なんだ。だから、僕の話を……」
だが、その時、彩香の番号がコールされ、彼女は行ってしまった。
(話を……聞いて欲しい)
しかし、黒い暗幕の向こうに消えた彼女は、ステージの上で輝く黄金色の蝶となって華麗に曲を弾き始めた。

その卓越した技術と存在感。それはまさしく圧巻だった。
「すごい……さすがは彩香さん。完璧だ。完璧過ぎる」
彼女の弾くエチュード4番が頭にこびり付いて離れなくなった。
(わかっていた。僕が弾く4番は彩香さんに比べたらどうしようもない欠陥だらけのでき損ないだって……。わかっていたんだ。なのに、何故僕は今、ここにいるんだろう。彼女と同じ舞台に立ちたいなんて、所詮は無理に決まっているのに……。どうして……?)

眩暈がした。
彼は暗幕に縋ってようやく体を支えた。
(逃げ出したい……。何もかも捨てて……ここから消えてしまいたい……)

「次、46番の方、どうぞ」
コールが来た。だが、井倉は一歩を踏み出せずにいた。
「どうしましたか? 46番は欠場ですか?」
「……」
「君が46番? さあ、出番だよ。早くステージへ」
係の人が背中を押した。
「僕は……」
暗幕の隙間から舞台に灯る照明が煌めくのが見えた。
「僕……」

――実力の差というものを思い知らせてやるわ

(彩香さん……)

――井倉君、どうしましたか?

その先に見える黒いピアノ。そこで誰かが呼んでいた。

――さあ、井倉君

「ハンス先生……?」
そこにいる筈のない幻を見て、彼は目をこすった。

「さあ君、出番だよ」
背後から温かい男性の声が響いた。
「黒木先生……」
一瞬だけ重なった輪郭。しかしそれは黒木ではなかった。井倉は頷くと舞台に出た。そして、中央でお辞儀をしてピアノに向かう。そこで井倉ははっとした。

(ハンス先生!)
ホールの一番後ろ。扉の前に立つ金髪の男を見つけて、井倉は胸が熱くなった。
(来てくれた)
ハンスは花束を抱えていた。約束通りに……。
(まだ予選なのに……。ましてや合格するかどうかもわからないというのに……)

――僕は信じています

(ハンス先生……)
客席には黒木や美樹の姿も見えた。
(ああ、僕はいったい何を迷っていたのだろう。彩香さんがどんなに素晴らしい演奏をしたとしても、僕は僕のエチュードを弾けばいいんだ。僕にしか弾けないエチュードを……)
煌めく証明の中に溶ける想い……。
(僕は弾ける!)

――弾ける


出場者すべての演奏が終わり、井倉は美樹やハンス、黒木と一緒に喫茶ルームへ行った。発表は1時間半後。彼らはここで待つことにした。
「ハンス先生、来てくださったんですね。ありがとうございます」
井倉が頭を下げた。
「僕、約束通り、花束もって来ました。仕事は急いで片付けて来ましたから……井倉君の演奏が聴けてよかったです」
ハンスが笑う。

「すごくうれしいです。でも、せっかくの花束を無駄にしてしまうんじゃないかと思うと申し訳なくて……」
井倉が俯く。
「大丈夫。きっと合格してるわよ」
美樹が言った。
「そうだな」
黒木も頷く。

その反応に井倉は驚いた。黒木が自分のことをそんな風に認めてくれたことはなかったからだ。それは黒木の本意なのか。それともリップサービスなのか。しかし、黒木がお世辞を言う訳もない。それでも彼にとっては耳を疑うような一言だった。

正直なところ、演奏の方はあまり自信がなかった。というより、ほとんど記憶がなかった。舞台の上からハンス達を確認すると、妙に心が落ち着いてすっと指が鍵盤の上を滑りだした。照明が少し眩しく、そこに遊ぶ幻想の光を見た。オーロラのような淡い哀しみがせめぎ合い、美しい音階でできた階段を上って行った。そして、気づいた時にはもう演奏は終わり、舞台を降りていたのだ。だから、実際演奏がどうだったのかはまるで見当がつかなかった。


しばらくすると、斜め向こうのテーブルに彩香達がやって来た。
理事長は無視したが、バウメンがハンスを見つけて会釈した。
「知り合いなの?」
美樹が訊いた。
「うーん。誰だっけ?」
ハンスが首を傾げる。
「ヘル バウメンですよ。フリードリッヒ バウメン。ショパンコンクールで優勝した」
黒木が説明した。
「ああ。そんな奴いたっけね」
ハンスは感心なさそうにサンドイッチを摘んだ。バウメンはそわそわとしながらこちらのテーブルに近づくとハンスに言った。

「ご無沙汰しております、ヘル バウアー。こんなところでお会いできるなんて光栄です。あの日以来ずっと、私はあなたのことを心の恩師だと思っているのです。もしよろしければ今晩お付き合いしていただけませんか?」
「悪いけど、今夜は先約があるんだ」
ハンスは素っ気なく言った。
「そうですか。残念です。では、また次の機会に……」
「そうですね。もしもそんな機会があればの話ですけど……」

歳はバウメンの方が上らしかったが、どう見てもハンスの方が優位な立場にあるようだ。
「僕、今猛烈にお腹が空いてるんだ。今朝から何も食べていなかったもんで……」
ハンスが言うとバウメンはテーブルに押し掛けた無礼を詫びて、すごすごと自分の席に戻って行った。
「いいんですか?」
井倉が訊いた。
「構わないさ。あいつ、ほんとはピアノが下手なんだ」
オレンジジュースのグラスに浮かぶチェリーをストローで突きながら、ハンスは再びエッグサンドに手を伸ばした。
「井倉君もどんどん食べてね」
美樹が促す。
「はい。ありがとうございます」
そうは言ったものの、やはり神経が高ぶって食べ物に手を出す気にはならなかった。


そして、ついに発表の時が来た。
「あった!」
美樹が叫んだ。
「ほら、見て! あそこ。46番。合格よ」
「ほんとに……」
井倉はまだ信じられないという顔でボードを見ていた。
「合格……。僕、ほんとに予選通ったんだ」
感無量だった。
「おめでとう!」
ハンスが花束を渡す。
「ありがとうございます。でも……」
井倉が言い掛けた時、丁度脇を通った彩香が言った。

「たかが予選を通ったくらいでオーバーね。まぐれかもしれないのに……」
「まぐれじゃありません」
ハンスが言った。
「そう。次の本選でその実力をお見せしましょう」
黒木も自信満々に言った。
「そうですか。では、本選を楽しみにしておりますわ」
そう言うと彩香は会場をあとにした。

「あ、彩香さん」
井倉は焦った。
(どうしていつもこんなことになっちゃうんだろう。僕は別に彩香さんと争いたくなんかないのに……)
ハンスがくれた花束に顔を埋めて、井倉は終わりそうにない試練を思って涙を流した。